夏、殷の時代に生まれた「夏暦」は、月の満ち欠けの周期を月とし、一年を12の月に分けました。毎月、月が見えない日を朔(ついたち)とし、月が円 い日を望(もちづき/十五日)としました。月の始めは朔(ついたち)の子の刻から数え、正月の朔(ついたち)の子の刻からを「歳首」(年始)と読んで一年 の始まりとし、この日を「年」とも呼びました。
「年」が中国で最大の祭日である所以は古い伝説にあります。
殷の時代、万年という青年がいました。彼は当事の節令(時節)がおかしくて、農業生産に影響を与えていると感じました。しかし当事の節令官の阿衡は 無学で、自らの過ちを認めようとはせず、節令(時節)が正しくないのは人々が神を怒らせたからであると推測し、天を祭らなければならないと主張しました。 始めは天子までがそれを信じて祭天の準備をしましたが、万年は自作の計器を持って、天子に自分の長年の研究結果を論じ、必ず正確な節令(時節)を測定する と約束しました。天子は万年の言い分は筋が通っていると思い、彼の意見を取り入れました。
阿衡はそれを聞いて、万年の暦作成が成功すれば自分の過ちが暴露されると恐れ、刺客を雇って万年殺害を企てました。しかし万年がまじめに仕事にうち こみ、仕事場を離れることはなく、また周囲の警備も厳しかったので、刺客は手を出すことができません。そこで刺客は矢で遠くから狙い撃ちをし、万年は重傷 を負いました。しかし同時に刺客も捕まり、阿衡の陰謀も明らかになりました。
万年は重傷で命の危険もありましたが、測定は見事成功しました。天子が彼の仕事場「日月閣」を訪れた時、万年はこう言いました。
天子は
天子は万年に一緒に宮中へ行き、傷の養生をするよう求めましたが、万年は行かず、引き続き「日月閣」に留まって仕事を続けました。最後に彼が正確な 暦を天子に献上した時は頭全体真っ白になっていました。天子は深く感動し、その暦を「万年暦」とし、万年を日月寿星に封じました。
これが現在人々が春節のことを「年」と呼ぶ所以であり、また年越しに「寿星」を掛けるのは万年を記念してのことなのです。
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